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ゴミ問題

  =nabe=inukai
私の仕事部屋

 どんな環境で仕事をしている? 私の仕事部屋は6畳くらいあるんだけど、半分は使わない物たちの押しこめ部屋になっているので、他人には見られたくない部屋でもあるのよねー。ガーデニング用品、猫のゲージ、猫のトイレ、年代もののパソコン、アウトドア用品、本、CD、子どものおもちゃetc・・・。机は2つ。大きな白いテーブルにはIBMのAptivaと17インチモニタ、EPSONのプリンタ、Macのノート型パソコン、Mo2台、TA、あとは細々とした文具が乗っている。配線がうまくいかなくて、コードだらけなのが悩みの種。で、もう1つは、黒い天板の細長いテーブル。本来なら作業用だったのだけど、いつも猫が乗っているので使うのは断念。窓際で日あたりも良くて、お昼ねにサイコーらしいんだよね。
 結局、イラストや文章を紙に書くときは「台所で」になっちゃうのよ。すぐ食べたり、飲んだりしちゃっうから、太って困るんだけどね。煮物をしながら仕事ができるという長所もある。
 最近買って重宝してるのは、透明のウォールポケットとコルクボード。整理能力に欠けてるから、忘れちゃいけないことはここに入れたり、貼ったりしておくのに便利。
 壁には昨年の母の日に子どもが書いてくれた私の似顔絵が掛かってる。仕事の合間に見ると、「保育園は今頃おやつかな?」とかふっと考えたりして。本当は保育時間を5時までお願いしてるんだけど、寂しくなって4時頃迎えに行っちゃうときもあるの。そんなことができるのも在宅ならではだよね。でも、子どもには不評で「まだ遊びたかったのに〜」って言われる。

 
大掃除は風邪ひきのもと!?
 私の仕事部屋も6畳程度。半分は本や資料、ゲラで埋まってるよ。この部屋、使い勝手のいいように大改造したい〜!と思って、カタログで机とか本棚とかチェックしたはいいけど、買う前に大掃除しなきゃ、買った物が入らん!!(爆)…というわけで、大改造計画はあえなくボツったしだいです。ハイ。
 ふだんは育児と仕事に追われて、家事はサイテーラインしかやってないからね〜。部屋も散らかさなきゃいいのに、どうしても散らかしてしまうのよ。たまに友だち(仕事してない)の家に行くと、美しく掃除されてて、そのたびに自己嫌悪…。まあ、しょうがないか。はぁ。
 たまに時間ができたり、誰かが遊びにくることになったりすると、俄然はりきって家中大掃除するんだけど。大掃除した日は、保育園から帰ってきた娘いわく「わ〜! おうちがきれ〜になってる!」(その後すぐに散らかしてくれるんだけどね)、家に帰ってきた夫いわく「疲れて風邪ひくなよ〜」。…たしかに大掃除した後、なぜか風邪ひく私です。

インターネット様々!?
  わたしがインターネットやるようになったのは、5年前くらいなんだけど、ほんとよく使ってるよ〜、最近。まず、やっぱり仕事。打ち合わせから原稿の納品までできるでしょ。資料探しにも大活躍! ADSLにしてからは、電話代も気にせずに済むから、検索、検索、検索…! 次に友だちとの連絡。わたしはほとんど毎日PCの前に座って仕事してるから、携帯メールはやってないんだよね。PCで事足りるから。ほんと、電話ってしなくなったなあ。友だちも子どもがいたり、仕事をしてたりするから、電話をかけるタイミングを考えると、メールがラクだからね。相手は、携帯だったりするんだけど。
 最近はまったのが、オークション! いろんなモノをゲットしてるよ。美術展のチケット、子どもの三輪車、絵本…などなど。わたしさ、柿本幸造っていう人の絵(児童画)が好きで、絵本を最近集めてるんだ〜。この人知ってる? 絵はちょっと昔風のタッチなんだけど、なんていうか、絵の構図がおもしろい。ほのぼのした動物の絵で、絵の空間が心に広がってくる感じが、とても好き。で、オークション(ヤフー)のアラート機能でこの人を登録してると、意外にひっかかって、お知らせがくるんだよ。この人に関するもの(たいてい絵本)が出品中です!ってことで…。これが楽しみ。
 あとさ、最近の本屋さんって売れ筋の本しか置いてないから、本屋に行くことも少なくなったのよね。どういう本があるかっていう検索から注文まで、ほとんどインターネットの書店サイトからやってる。インターネットさまさまだわ。
 …ということで、なんでもかんでも便利なネットを使って済ませてるから、どんどん運動不足に陥っているわたしです。

本はネットで買うが得策?
 メールは、はじめて10年くらいになるのかなぁ。当時プロバイダーなんてあまりなかったし、私のまわりではほとんどの人がニフティサーブ使っていたわね。
 ネットで仕事以外に使っていることっていったらやっぱり本の購入。いくつかのネット書店をお気に入りに入れておいて、ここでは品切れになっているけど、こっちにはあってよかった、なんて具合に使ってる。三月書房という京都の本やさんは新書やさんだけどもう絶版・廃刊になってしまった掘りだしものもあるので、時々チェックしたり、欲しいのがあったら問い合わせたりしてる。沼田元気の本でもう手にらないとあきらめていたのが2冊も手に入ったときはうれしかった。「キティちゃんの夢のお散歩」と「旅する少女の憩」というもの。そう!私が集めている本っていったら沼元さんの本なのです。写真も文も最高!「私の師匠」と勝手に呼んでいるくらい。
 ネットの話ではないのだけど、タイトルも作者も、いつ頃出版されたかもわからない本で、ストーリーだけはぼやっと憶えていて、ずっとひっかかっているなんて本ない?私の中にもそんなモヤモヤした絵本があって「東京子ども図書館」ってとこに電話で問い合わせてみたの。それがすごいのよ。だって「夜行列車に女の子が乗ってて、さかながたくさん乗ってくる話なんです」っていうだけで探し出してくれちゃったの。もう!感謝感激!すぐにネット書店で購入しちゃったよ。「はしれ、きたかぜ号」っていうんだけどね。
 本といえば最近は図書館の除籍図書も楽しみにしている。価値観ってほんとひとによって全然違うものなのよね。あまり借りてがない本、古くなった本などを除籍図書として、一般に無料で提供するものなのだけど、あれ?こんな本あったの?なぜこれが人気ないの?なんて掘り出し物もけっこう見つかるの。
 いやー本の話はつきないねー。早速、柿本幸造さんをネットで検索してみまっす!

子どもに仕事を理解してもらうには
 最近ね、相手には悪いと思いつつも、子ども連れて取材とか行っちゃうことがあるの。タレントのA.Cさんじゃないけど、母が働いていればそんなこともあっていいんじゃないの?って思ったのと、子どもに母はこんなことして働いているんだぞ。ってわかって欲しかったの。家に子どもといるときはできるだけ接してあげたいと思って、パソコンに向かったりしないようにしてたのよ、これまでは。子どもも小さいと理解できないでしょ?パソコンでどんな仕事してるとか。
 それでね、何度か取材の仕事連れて行っているうちに、「大きくなったら、カメラマンとマンガ書く人と本売る人になりたい」って言うようになったよ。取材先で写真撮って、それもとに絵(彼女にはマンガに見えるらしい)書いて、最後は本になるっていうのがわかったんだねー。我が子ながらすごい(親ばか!)。
 でもさ、パソコンでの作業で集中しなきゃいけないときなどは、子どもがうろちょろしてたら絶対無理だけどねー。怒りながらやるより、やらないほうがましってもん。いっぱい遊んで、子どもが寝てからってことになるなー。体力的にはつらい。小学生になればお昼寝ないぶん早く寝るし、ラクになるかなという期待はしてるよ。もうちょっとだー。
 もっちゃん宅では仕事あるときの子どもへの接し方ってどうしてるの?

お子ちゃまとお仕事について
 子どもが体調が悪くて保育園を休んだ時は、やっぱり子どもを優先するよね(仕事より)。昼間は子ども相手で終わっちゃうから、子どもが寝てから仕事、だね。…そう思ってるのに、なかなか寝ないと頭にくるんだよね〜(笑)。最初は「もう寝ようね〜」なんだけど、最後には「寝なさい!って言ってんでしょ!!(怒)」だよ。子どもが傍らにいながら仕事するのは、ストレスたまるよ。うちなんか、まだ下が2才だからさ〜。
 子どもを仕事場に連れて行くことについては、ケースバイケースじゃない? 連れて行っても相手の迷惑にならないならいいと思うけどね。なべさん家のお嬢ちゃんは、ある程度聞き分けがある年齢だから、そのへんは大丈夫なのかもしれないけど。
 一度、仕事じゃないんだけど、習ってる手話の講座に連れて行ったことはあるんだ。あとあとになっても「お母さんのお仕事に行ったんだよね〜」なんて言ってるよ。
 親としては子どもに自分の仕事を理解してほしいとは思うよね。でも、サラリーマン家庭の場合は、たいてい「仕事=会社に行く」っていう程度の理解しかできないでしょ。だって、具体的にイメージできないもん。自営業は、その点わかりやすいよね。うちの場合は、上の子は相変わらず「絵本作り」に凝ってて、裏紙(たいてい不用になったゲラ)を同じ大きさに切って、絵をたくさん書いて、ホチキスで留めて、…ってことを飽きもせずやってるね。それを保育園に持っていったら、先生に「やっぱり親御さんのお仕事の影響かしら?」って言われて、ああ、そうかも…と思ったんだけどね。フツウの家よりたぶん本なんかたくさん置いてあるし(散らばってるし?)、ゲラにもくもくと何か書き込んでる姿はたくさん見てるハズだもんね。下の子は、「親がパソコンに向かってる=お仕事」と理解してるみたい。自分でキーボードを叩きながら、「お仕事!お仕事!」ってやってるし(笑)。
 最近、夫もフリーになって基本的に家にいるでしょ。で、送り迎えも半々でやってるわけ(基本的には、送りは私、お迎えは夫)。で、たまに夫が外出してて、私がお迎えにいくと、子どもたちが「今日はお父さん、お仕事でいないんだよね〜!」ってデッカイ声で言うの。事情を知らない人が聞けば、「日頃は仕事がなくて、家にいるんだ(だから、日頃はお迎えに来てるんだ)」って聞こえない? まあ、いいけどさ…。


信頼できる小児科医って…? パート1
 先日、上の子が風邪をひいたらしく、ある小児科(A病院)に行った時のこと…。そのA病院は、いわゆる「いい先生」がいる「いい小児科」という近所の一部のママたちの支持を集めているところ。我が家がいつも行ってる近所のB病院が休みだったから、ちょっと遠いけど車でその病院に行ったの。
 診察の時、「咳はいつから出てるの?」って聞かれたから、「3日ほど前から朝・晩だけ出てました。でも、元気で熱もなかったので…」って答えたら、「え! 3日も前から出てたの!!」「この間来た時も、初めて来てそのまま入院したでしょ?」って言われて…。
 実は、4月頃に上の子が肺炎で入院したことがあって、1度目に診てもらった時には「おなかにくる風邪」と診断されて、2度目(3日後)に診てもらった時に「肺炎」と診断され即入院…ってことになったのよ。だから、「初めて来てそのまま入院」というのは、明らかに医師の勘違いなわけ。
その時、私は正直「カチン!」と来た。だって、その言い方はまるで「咳が出てるのに、3日も放っておくなんて信じられない親だ! だから子どもが肺炎で入院したりするんだよ」って感じだったから。
 でもさ、フツーに考えて、熱もなく、食欲もあって元気だったら、少々咳が出てたとしても(朝と寝る時に2〜3度出る程度)、ソッコー病院に連れて行く家ってないと思うんだよね。それに病院にかかっていても(上の子が入院した時のように)、子どもの病状は進行が速く、判断が難しいでしょう?(現に、その医師も結果的には判断を誤ったことになって、入院することになった時、私に「申し訳ない」って言ったんだよ!) それを何だか「これじゃ、母親失格だよ」ってニュアンスで医師に言われたら、ふつうの母親は落ち込むと思うんだよね。そういうことをその医師はわかってないんだろうな、と思ったわけ。


信頼できる小児科医って…? パート2
 こういうことがあってから、私はそのA病院(医師)が「いい病院(医師)」と一部のママたちに支持されてることが不思議だった。何をもって「いい」と判断しているのかな?と思って。そこで、A医師とB医師の患者への対応を比較してみたの。
A 必ず病名を告げる(風邪の時に「気管支炎」とか):B ほとんど病名を告げない(「のどが赤いね」程度の言葉しかない、あるいは「○○かも…」程度)
A レントゲンをよく撮る:B レントゲンを撮ったことはない
A 再診を求める(「2日後に来るように」など指定される):B 何も言わない(しょっちゅうかかってるのに名前も覚えてもらえてない…)
 私は正直、B病院を「いい」とは思ったことはない(処方箋を書き間違えられたこともあるし)。ただ、こうやって比べてみると、たしかにB医師よりはA医師の方が、親の立場からすると「安心感」があるように思うのかもしれないな〜、と。「病名」と告げられれば(それがどういう病気だったとしても)一応の納得ができるし、レントゲンを撮って見せてくれればこちらも目で確認できる(できた気になる?)し、再診を求められれば「病気が治るまで責任を持ってくれる」と思えるし…。
 でもね〜、と私は思う。友だちが言ってことだけど「受診のたびにレントゲンを撮るってことが子どもの体にとっていいことだとは思えない」し、病状によっては2日後に診てもらう必要がある(場合によっては翌日だって必要だ)けど、回復しつつあるような時にわざわざ病院に行く必要はない(かえってよくない)と思うから。
 ここで言いたかったのは、個々の病院がどうかっていうことじゃなくて、親にとって信頼できる小児科っていうのは、どういうものなのか?っていうことなの。たしかに医師との相性みたいなものはあると思うから、同じ医師でも感じ方はそれぞれだと思うのね。ある医師を「信頼できる」と思うママもいれば、「ちょっと疑問…」と思うママもいると思うから。
私は、小児科医に全面的に子どものことをお任せしたいということではなくて、医師と率直に話ができる関係を築けるといいなあと思う。親の感じることもわかってもらえるとうれしいな、と。やっぱり信頼するには、相互理解が重要だと思うから。そういう関係を築ける医師が「近所に」欲しいのよね〜。仮に名医だと言われる医師がいても、その病院が遠ければ実際通えないこともあるしね(仕事を持つ親としてはそのへん子どもに申し訳ないと思うんだけど)。小児科医が激務でしかも儲からないということで、どんどん減っているっていうのは、ほんとうに憂慮すべき問題だわ。政府よ、少子化対策としても、もっとこの問題を考えてください〜!


かかりつけ

 最近はかかりつけが必要なほど病院にはお世話になっていない。子どもも親も多少の風邪なら病院へは行かなくて済んでいる。ありがたい。
 子どもがちっちゃかった頃を思いだしてみた。大きな総合病院が近くにあるのだが、いろんな病気の人が来ているし、いつも同じ先生とは限らないので救急のとき以外は利用したことがない。風邪や予防接種のときはベテランの女医さんがいる個人病院を利用していた。忙しくても先生はよく説明をしてくれ、看護婦さんもてきぱきしている。レントゲンや血液検査もする。たぶんもっちゃんの言うところのA医師タイプなのだ。やはり人気があっていつも混んでいた。朝早く行っても薬をもらって帰るのは昼近くなってしまう。仕事が忙しいとき、別の病院に行ってみた。とっても空いていた。熱があってお腹が痛いという子どもに座薬が処方された。説明も少なかった。ちょっと不安だった。その日の夜、子どもがとっても苦しそうなので夜遅くまで診療している別な病院(はじめて行く内科医)へ連れて行った。すぐに尿検査などしてくれて「昼から痛いのに今まで何してたの?」と言われた。そこで別な病院で座薬を処方されたが、子どもがお腹痛いと苦しがるので、入れるのを躊躇してしまったと話た。その医師は病名を告げ、子どもにはよくあることで、昼間もらった座薬を入れても大丈夫だからと言ったのでやっと安心することができた。確かに、薬の処方は間違ってはいなかったのだが、いつも空いている病院へはもう行かなかった。少々の時間をけちったばかりに心配度は何倍にも増してしまって、結局、1日中他に何も手につかなかった。
 もっちゃんの話からそんなことを思い出した。今は歯医者さんに頭を痛めているのだが・・・。


気分転換
 仕事は目の前にたくさんあるのに、どうしてもできない時ってあるよね?
雪山登山のように進もうと努力すればするほど、体力だけ消耗して、全く進めていない状態。これが、あるきっかけで「ふっ」とラクになるっていうか、今までの苦労がウソのように「たったか、たったか」スキップを踏むように軽快にはかどっちゃうから不思議なのよねー。「あるきっかけ」って言ったけど、まぁこれがいわゆる気分転換のこと。
 私が一番好きな気分転換は温泉。温泉地ならでは、けっこうりっぱな温泉施設でも500円から日帰り入浴ってあるし街の公衆浴場(温泉)だともっと安い!
 2番目はホームセンターや大型スーパーをぶらつくこと。時には100円ショップもあり。些細なもの(例えばペン1本)を買うにも、車に乗って、ちょっと離れた店まで行っちゃう。
 3番目はお茶。近くに行きつけにしたくなるような店はないので主にドーナツショップやハンバーガーショップで。おかわり自由だとうれしいのよね。暖かくなってきたら「にわかガーデニング」も気分転換に入ってくる。植えては枯らしの繰り返しだけど。
 実はやめちゃった気分転換っていうのもあるのよ。考えなくていい昔のゲームをね、ひっぱり出してきてやってた時があるの。「ぷよぷよ」とか「桃太郎伝説」とか・・・でもね、気分転換のつもりが結局最後まで頑張っちゃってダメだった。懐かしいからうれしくなってあれも、これもなんて次々とはじめたりして。

気分転換は、もっぱらゲームで…。
 私の気分転換は…う〜ん、なんだろう? 仕事中だったら(?)、もっぱらゲームだね。煮詰まるとパソコンで1ゲームする…とか。
 ゲームと言えば、以前(といっても、もう15年くらい前だけど…)学生だった頃は、まだ「スーファミ」の時代で、伝説の「ドラクエ」が世の中を席巻してたな。私も例にもれず、卒論書きながらやってたよ〜、どっぷり(笑)。「ファイナルファンタジー」が出たばっかりで、これは全然おもしろくなかった。PS2とか買いたいな〜、と思うんだけど、今の状態で買うと、もうたぶん睡眠時間がなくなってしまうから我慢してるんだ。ロールプレイングが好きだから、きりがなくなっちゃうんだよね。パソコンのゲームでは、「スパイダソリティア」にはまってるんだけど、ロールプレイング以外ではこういうゲームが好きなの、基本的には。それこそ学生時代は、懐かしの「テトリス」にはまって、ゲーセン通いしてたよ(爆)。囲碁や麻雀のゲームもやるんだけど、こういう対戦型はやっぱり実際に人とやりたい。こういうゲームは、心理的なかけひきがおもしろいんだもんね。その人の性格とか、その時の気分とか、そういうのもゲームの内容に反映するでしょ。私はどちらかと言えば慎重派なんだけど、麻雀だとけっこう安く上がるのはイヤとかさ、あるじゃない?(といいつつ、下手だからすぐ振り込んじゃったりするんだけどね…)
 なかなかうまく気分転換できない性格(たち)なんだけど、まあ、子どもの相手も気分転換の一つだからね。それなりに気分転換してるのかな?


1年生になったら〜  
 小学生の子どもを持つ在宅ママだちに聞いたら、「保育園時代のほうが働けたわよ」って言うわけよ。ちょっとがっかりしちゃった。だって小学生になれば、もっとラクになる(子育て面では)って思っていたから。「役員でしょ、当番(旗ふりやプールなど)でしょ、行事参加(地域の子ども会もあるらしい)に、宿題、習い事の送り迎えよー。もう、忙しくて」と前出のママたち。んー聞いているだけでも目がまわる。しかもそこに仕事があって家事があって・・・。自分が小学生の時も母親ってそんなに忙しかったのかなぁ。そういえば行事の記念写真にはけっこう父親の顔が写っていたっけ。小学校はより父親の協力が必要になるのかもね。うちはどう転んでも無理なんだけどさ。「小学生は夜はやく寝る」これはうれしいなー。保育園のお昼寝のおかげで我が家では毎晩12時就寝なんだもん。

小学生の親はタイヘン!   
 そうだね〜。上の子が小学校に入ってからは、マジ、たいへんっす…(ToT)。保育園は、とにかく預ければ後は保育士さんにすべておまかせだったけど、小学校はそうはいかない(…と、入学してからわかった)。何かと親が引っ張り出されるんだよね。行事も多いし、PTAやら支部(地域)の役員・当番やらもあるし…。
 昨日の私の1日の行動を書くと…朝、上の子の通学班を見送り、→下の子を保育園へ送り、→来週の授業で使うものの買い物をし、→上の子を習い事へ送り、→下の子を保育園にお迎えに行き、→習い事の迎えに行き、→学童の運営委員会(学童の役員やってる)→22:30に帰宅…だよ。これに、仕事、家事があるんだからさ。私なんか、まだPTAや支部などの役員はやってないからいいけど、これにそんなもんが入ってきたら、もう仕事どころじゃない! 子どもが小学校に入ったら仕事を辞めるっていうママも多いって聞いてたけど、ほんと、そうせざるをえないでしょ、って感じ。
 あとさ、子どもが入学して以来、私が一番「勘弁してほしい!」と思うのは、親が準備することが多すぎる!ってこと。まあ、入学してすぐだからしょうがない面もあるとは思う。でも、しょっちゅう買わなきゃいけないものが出てくるし(←1度に済ませてくれ!)、授業で使うものの準備も結構あるし(←できれば学校で用意してくれ!)…。とにかく毎日落ち着かない気分。なべさんところも、来年だね…。
親抜き3泊キャンプは無事に過ごせるのか?
 うちの上の子は比較的小さい頃から自立心が強く、なんでも「独りでできるもん!」状態だった。なにせ5才で「一人暮らしする!」と宣言したくらいで、3才くらいからおじいちゃんの家や友だちの家にお泊りすることなんて何でもない子どもだった。
 それが、最近ちょっと変わってきた。テレビでパラサイトシングルの話題が出ていたので、私が「やっぱりハタチになったら家を出て、一人暮らししなきゃね。」と言ったら、「え〜、嫌だよ。絶対出て行かない!」ときた。「じゃあ、○○ちゃん(下の子)と一緒に二人暮らしすれば?」と言うと、「それならいい」と言う。また、先日、ガール・スカウトの1泊キャンプ(7月末から親抜きの3泊のキャンプがあるのでその練習らしい)があった時には、実は夜泣いてしまったようなのだ。
 小学生になって新しい環境の中で不安になり、普段の生活の中でも泣いてしまうことが多くなった。保育園時代のしっかり者のイメージが崩れ、意外な面を見ることが多くなったのだが、親としてはその方が安心のような気もしている。あまり小さい頃から自分の感情を押さえつけることを覚えてしまうと、あとあととてもつらくなるから、今はまだ自分の感情に身をゆだねる時もあっていいんじゃないかと思っている。6才であまりにも親にベタベタというのも困るけど、適当に甘えつつ、自立の芽も見えるくらいがちょうどいいと思う。
 とはいえ、今度の3泊キャンプの時にはどうなるのか、ちょっと心配…。


ひとりでできるもん?
 年長組になって「ひとりでできる」という言葉が多くなった。ただし必ず「お母さん見ててね」がつく。しかし「ひとりでできる」と言わないことがひとつある。うんちの後おしりをふくこと。「失敗してもいいからやってごらん」と言っても「できない」の一点張り。手もまだ短いし、どこをふくかの位置感覚も難しいのかなぁ。小学生になったら学校でがまんしないように教えておかねばと思ってはいるのだが・・・。
 私自身が苦手なものは、子どもには得意になってもらおうという気持ちがあるので、料理や英会話はやらせている。「まだ小さいのに・・・」という人もいるが、本人も自分から進んでやっているのでよかったと思う。そろそろまわりを見渡して自分の興味のあること、好きなことにも気がついてくる頃かもしれない。親はよく子どもを観察して、何を欲しているのか敏感に察知してあげなければならないと思う(ちょいと大袈裟な言い方になってしまった)。
 あまりにも忙しい両親のもとで育った私自身が感じたことは「いつでも子どもは親を必要としている」ってこと。手がかからなくて、しっりして見える子どもでもね。「親はなくても子は育つ」これって本当かしら? 必ずしも実際の親である必要はないけれども、親の役割をはたしてくれる人が近くにいないと「心身ともにすこやか」には育ってくれないものではないのかなぁ。最近の犯罪の低年齢化で「自分の子どもが加害者にならないためにはどうしたらいいか」なんて話題もでているけど、何だかそのあたり「親の役割」ってのがキーワードなのかなぁなんて考えてもいる。
 あぁ、でも、やっぱり、被害者になる心配、加害者になる不安。ないとは言えないよね。


 時間の使い方  
 どうしてこんなに時間が足りないんだろう。多分、時間の使い方がへたなんだろうなぁ。いぬかいっちは韓国語習ったり、手話習ったり、子どものイベントもきっちりこなしているけど、私ときたらみんな中途半端なんだなー情けない。やりたいことはもちろん沢山ある。経済力の問題も大きいけれど、時間にはホント余裕がない。夕方、とっても忙しいときにクライアントから電話が来て、ものすごーくイライラしちゃって、おもいっきり態度に出してしまったことがある。まぁ相手も状況を察して、その時間帯に電話してくることはなくなったのだけど・・・。
 在宅だと自分が決めない限り、仕事と家庭はいつも混在しているわけだよね。一応、夕方子どもを保育園に迎えに行くけど、それからまた仕事したりすることもあるし、朝まで仕事やったら昼間寝ていたっていいわけなのよね。だけどそこに家事なんて入りこんでくると、わけがわからなくなる。家事なんてまともにできていないので、どこで影響があるんだといわれそうな気もするんだけどね。


 息抜きも大切だよ  
 時間…、ホントないよね! 朝起きてから、なんだかもうバタバタだもん。今日から2学期が始まったけど、子どもが小学校に行き始めたら、ますます時間はなくなった気がするよ。たとえば、今日はお弁当がいるとか、親参加の行事あるとか、宿題があるから見てやらなきゃとか、明日提出するものがあるとか、習い事の送り迎えがあるとか…もろもろ。保育園時代とはまた別の「時間を取られるもの」が、数々出現するんだわ。
 もう、こうなったら売れっ子芸能人よろしく、綿密なスケジュールを立てて、とにかく集中してこなしていくしかないよね。タラタラやらずに、ガーッ!と一度にやってしまう。でも、私も決して時間の使い方がうまいとは言えないよ。いつも時間に追われてるしね〜。
 でもさ、いつもパンパンにやってたら爆発しちゃうから、適度に息抜きして、上手くやっていかないとね! 私の場合、習い事は息抜きだもん。その息抜きの時間を確保するために、ほかをめいっぱいやって済ませるようにしてるっていうところもあるかな。
 今は、韓国語にはまってるんだけど、やっぱり目下の悩みは勉強する時間がないってこと。本人の資質の問題もあるけど(笑)、やっぱり時間がないから全然上達しません(泣)。でも、まあいい気分転換にはなるよ。今度、韓国語の歌をお聞かせしましょう! 俄然、燃えて練習してるから!(笑)。


タバコを吸うということ
 私はヘビーではないけど、タバコを吸う人間だった。今回、自分の誕生日を機にタバコをやめたら、思いのほか禁断症状が出たんだよね。とにかく眠い、意識が集中しない、脈拍が遅くなるなど…。まあそれらは2日間で終わって、今日はめでたく3日目を迎えてるわけだけど。
 私がタバコをやめるうえで、一番のネックは、タバコへの「心理的な依存」。身体的にはそれほどじゃない。ふつうに吸ってる期間でも、1日吸わないでもいられるくらいだったから。心理的な依存…これがやっかいでね〜。2年くらい前、タバコをやめた時も2カ月間吸わないで過ごせたのに、ものすごく嫌なことがあって、タバコに逃げてしまった経験があるんだよね。
 人間、健康でいる方がいいに決まってる。子どもができてからは、つくづくそう思う。でも、一方でそういう健全な自分に対して反発したくなる自分もいる。毎日、いっぱいいっぱいでやってると、時々「もう、勘弁して。これ以上がんばれないよ」って心底弱音を吐きたくなることあるじゃない? その弱音の吐露が、私にとってのタバコだったわけ。(←いや〜、これはもうはっきり薬物依存者の言い訳にすぎないんだけどね。)「もういいや。癌にでもなんでもなったってかまわない」的ななげやりな感情のもっていき場所がタバコだったんだよね。まったくもって幼稚なんだけど、タバコを吸うということが、私の精一杯の抵抗だったとも言えるなあ。「(性格が)強いよね〜」とか「よくやってるよ、えらいよ」とかひとに言われるたびに、内心「いえ、私はこんなに意志も弱くて、依存心が強いんですよ」という意思表示のつもりでタバコを吸ってたところもあるかもしれない。
 まあ、これからは別の手段で、自己の感情を処理し、周囲へのひそかな反抗を試みたいと思ってます。


「健全な自分」と「自堕落な自分」について。
もち「健全な自分」はいぬかいっちで「自堕落な自分」が私(どちらも自己分析)。結果、いぬかいっちはタバコにはけ口を求め、私は現在タバコを必要としていない。だけど、どこかでバランスをとろうとしているのは同じだよ。タバコを吸っているときに幸せならそれでいいじゃないか。中毒(自分の意思とは関係なくカラダが欲しているような)はまずいけど、そこで「精神の健全さ」が保てているならば吸うことに反対しないよ(私が反対しても賛成しても、タバコを吸う人は吸うし、辞める人は辞めるのでしょうが・・・)。今のところ違法でもない。健康を考え出したらきりがないしさ。食べるもの、住むところ、使うもの、世の中、体に悪そうなものばかりじゃないかな? 私はタバコ吸わないけど(でも以前は吸っていたのだよ。実は)、電磁波ビンビン発している古いパソコンを子どものそばに置いているし、無農薬ではない安い食材で料理を作ったりもする。健康と環境問題は考え出すと生きていけなくなる(笑)。タバコ辞めた人(正式には辞めようとしている人)に贈る文章ではなくなってしまったけど、影ながら応援はしているよ。ではでは

 追体験 
 将来何になりたいか。よく保育園や小学校で言わされるでしょう? その頃はさして考えもしないで「大きくなったら○○になりたいです」なんて言っていたと思うのよね。職業もどんなのあるか知らないしさ。うちの娘が保育園で「マンガ家になりたい」って言ったとき、びっくりしたのよ。だって私も小学校の時の文集か何かに「将来はマンガ家に」って書いていたから。知っての通りマンガ家にはなっていないんだけど…。
 子育てって昔の自分を思い出せるという楽しみ方があるんだなぁって近頃思うようになった。追体験っていうんですか? こんなおやつ食べていたなぁとか、こんなことして遊んだなぁとか・・・もういろいろ走馬灯のように蘇る。ずーっと忘れていたんだよね、子ども持つまでは。
 あとね、子どもの時ちゃんと遊んでいないと、子どもに遊びも教えてあげられないんだなってことも、よく感じることなの。先日竹細工名人の取材に行ったのね。そしたら、子どもたちのために竹とんぼなんて「しゅっ、しゅっ」とナイフで数階竹を削っただけで作ってしまって「かっこいい!」のよ。あ〜私もかっこいい大人になりたかった。私が教えられる遊びといえばお絵描きくらいなのだ。それでうちの子は「マンガ家」になりたいのだと思うが。

 愛されていたという実感 
 自分が子どもの時のことを追体験できるっていうのは、ホント楽しいよね。ちょっとした遊びでもできると、子どもは「お母さんってすごいね〜!」って尊敬してくれるから、うれしいわ(笑)。あやとりとか、お手玉とかだと、忘れてると思ってても、手や体が覚えてるもんね。
 子育てで楽しいのって、自分がどんなに愛されていたかを思い出せるっていうのもあると思う。もちろん、私と私の母は別の人間だから、子どもの愛し方も全然違うのかもしれないけど、たしかに自分は親に愛されていたんだと実感(再認識)できるのがとてもうれしい。子どもが熱を出したときのない心の置き所のないような心配だとか、子どもの日常のささいな言動に感じる愛しさとか、親としてこういうのを味わうたびに“私の母もきっとこういうふうに感じたんだろうな”、“こういうふうに思われていた子どもの私は幸せだったな”と思うんだよね(勝手に思ってるだけかもしれないけど…)。
 最近、幼児虐待で子どもが亡くなる事件がニュースで毎日のように流れているけど、なんでなんだろうな…。ろくにものも言えない乳幼児を虐待して、殺して…。そういう人は、今まで生きてきて何を感じてきたんだろう。きっと、何にも感じてこなかったんだろうな。親からの愛情を感じることができないまま大人になってしまったんじゃないかな。それにしても、ただ殺されるためだけに生まれてきたような子どもたちが、ほんとうに哀れで、こういうニュースを見るたびに涙が抑えきれないよ。いっそ生まれてこない方がよかったんじゃないかって思ってしまうほど、殺された子どもたちが哀れでしかたがないよ。


大学時代の友だち 

 久しぶりに大学時代の友だち(男性)二人と会って飲んだ。比較的近所(同じ県内)に住んでいることはわかっていて、年賀状のやりとりはしてたんだけど、集まるきっかけがなくて、もうかれこれ8年くらい会ってなかった大学のゼミ友だち。彼らに初めて会ったのが、もう20年近く前になってきたことに驚きつつ、懐かしく、いろんな話をしたの。みんなそれぞれの仕事をしているんだけど(一人は公務員、一人は僧侶、私は編集者)、昔話だけでなく話が盛り上がっておもしろかった。政治関連、芸術関連、国際情勢関連…こんな話をしながら、やっぱり私たち年をとったんだなあと感慨深かったな。だって学生のときはなんだかんだいって、視野が狭かったと思う。私たちは文学部で文学作品についていろいろああでもない、こうでもないとやってたけど、世の中のことなんてあまり関心もなかったし、とにかく知らなかった。幸せな時代だったのかもしれないけど。バブルでみんな浮かれてて。でも、それぞれ外国に行ってみたり、仕事で経験したり、子どもができたりしたことで、三人三様の何かをつかみつつあるんじゃないかと思ったよ。たまにはいいね。また集まりたいな。

20年!?
 そうかー20年もたっていたのね。年は自然、とっていくものだけど、うまく年を重ね、人間的に厚みを増していくのは難しい。いぬかいっちが「昔は視野が狭かった」って思えるのはやはりそれだけ成長しているってことの証明だよね。私も田舎に帰って、それこそ20年ぶりに会う友人がいたわけだけど、「あ、あまり変わってない」って印象だったよ。昔から頑張りやだった人は今も「がんばってるな」って思えたし、面倒見のいい人は今も変わらず、人の世話をやいている風だった。私は彼女たちにどう映ったのだろう。人伝に聞いた話だが、「彼女、高校生の時から変わっていたもんね」と友人の一人には言われていたらしい。そーかー高校生の時から私って変わっていたんだ…って違う違う変わってなんかいない。平凡な田舎の女子高生だったのよ。人の目というのはわからないものね。まぁ20年隔てて会える友人もそういないし、これからもどれだけ、そういう友に出会えるかもわからないよね。大切にしよう。
悲しき父親
 中学生くらいの娘を持つパパたちの話を聞いていたら、「洗濯ものは別にして」「あっち行って」「触らないで」という言葉を娘から浴びせられているようだ。逆はどうなんだろう。息子を持つ母親からそんな話を聞いたことはないが・・・。小さい頃はパパ、パパとなついていたのになぜそんなことが起きるのだろう。母親で良かったと喜ぶべきだろうか。
 つい先ほど「宿題はやったの?」「時間割したの?」と矢継ぎ早に言ってしまい、娘に「うるさい!」としかられたばかりだ。
いまだけなのよ…。
 うちの娘二人もまだまだ「お父さん大好き!」で、なにかとお父さんにやってもらいたがる。夫は子どもたちの着替えから、ご飯を食べさせることから、就寝前のマッサージ(!)まで、マメにいろいろとやってあげるので、子どもたちも満足している。ふだんはそういう夫だが、忙しいときや(自分の)機嫌が悪いときは子どもたちのことはほっぽらかしにするので、そうなると下の子などはギャーギャーと、そりゃもう大騒ぎしてしまう。そのたびに私は心の中で、「今だけなんだから、ちゃんと相手してやればいいのに…」とひそかに思う。そう、ほんとに子どもたちが「お父さん!」って自分から寄ってきてくれるのは「いまだけ」なのよねえ…。でも、「お母さん」である私だって同じだ。子どもたちにとって単純に「うるさい」存在になってしまうのも、そう遠いことではないと思う(泣)。だから私は、子どもが私と手を繋ぎたがって、小さい手を差し伸べてくる瞬間がとても好きだ。その小さい手を握るたびに、「あとどれくらいこういう時間があるのかな〜?」なんて思ってしまう。まるでおばあちゃんの心境だけど…。 
生意気になっていく娘に…。
 小学2年生になる娘が、日に日に生意気な口をきくようになってきた。不満そうな顔をしている娘の言い分を聞いてあげようと、最初は優しい口調で語りかけるが、娘ときたら「べつに〜」とか「…って言ってんじゃん!」とかさんざん生意気な口をきき続ける。…で、こっちもついに爆発! 「なんでアンタのご機嫌をとらなきゃいけないの!?(怒)」と心の中で叫び、「もう止めよ!」と話を打ち切ってしまう。今はまだ、10分後には「…お母さん、ごめんね」などと言って擦り寄ってくる可愛い一面もあって、もう一度話をし直すことも多いが、それもあと何年のことだろうか。今日とあるテレビ番組で、娘が万引きをしてしまったのに、その娘を「きちんと叱れない母親」というのが取り上げられていたが、おそらく私はそういう母親にはならないにちがいない(笑)。きっと私は呼び出されたスーパーの警備員室かどこかで、娘の頬を一発張り倒すくらいの勢いだと思う。張り倒すことがいいか悪いかはわからないが、親は万引きをした子どもに一言言ってやる権利もあるし、義務もあると思う。教育的には「叱ることと感情的に怒ることは違う」とか言われるかもしれないけど、子どもが万引きしたなんていう事態になったら、私はそんな体裁なんて構っていられない思う。感情的に怒ったっていいんじゃない? その怒りの裏に親が本気で子どものことを思ってるってことが見えたら、子どもだってなんで親がそんなに怒ったかを、きっとわかってくれると思うから。日々こんなたいへんな世の中で必死に働いて子どもを育てているんだから、ビビッてないで胸をはって子どもにぶつかっていきたい。
飴とムチ?
 母親がぎゃーすか言うのはし方のないことなのだ(きっと)。それが愛情表現であり、生きていく術を教えるためだからだ。子どもにとってもほっておかれるよりは、ちょいとうるさいくらいがいいような気がする。どちらかというとほったらかしで育った私だから、何も言われないことが「自由」とはちょっと違うということは、子どもながらにうすうす感じていた。「こんなことしてもいいの?」「あんな遠くへ行ってもいいの?」誰も何とも言ってくれないのは寂しいものだ。いぬかいっちが見たというテレビの中の少女ももしかして・・・?
 子どもはかなりわかっている。わかっていてやっていたり、言ってみたりするものだ。親を試しているような部分がある。わかってはいるのだから、どこまでも追い詰めて、わからせようとする必要はないと思う。頬に一発お見舞いしたって、後をひかないのがいい。子どもにとって逃げ場はある程度必要だろうとも思う。それがやさしい父親でもよいし、後日の家族で「おでかけ」でもいいだろう。我が娘の「よりどころ」は今のところ学校であったりする。「○○先生やさしい!」「○君おもしろい」「学校大好き!」となっている。
最近の若者は…。
 自分の口から「最近の若者は…」なんて言葉が出てくるようになるとは、まったく想像だにしていなかったけど、私ももうそういう年なんだろうか…。(笑)
 それにしても、先日のニュース番組の特集で見た最近の若者事情は、見るに堪えられなかった。「合法ドラッグ」なるものが新宿の道端で堂々と売られていて、平気な顔で買っていく若い子たち。いくら合法(というか、「違法」じゃないだけ)でも、結構ヤバメなものもあるらしいんだよね。でも、数千円で簡単に手に入るというので、どんどん深みにはまっていってしまう子も多いとか。それから自分の履いている「パンティー」を携帯を使って売る女の子たち。援交なんかに使われるようなサイトでは、こういう売買もフツーなんだって。客(中年男)と一緒にカラオケに行ったりして、そこで目の前で脱いで渡すとか…。2〜3日履いてるようなものが高く売れるんだって。…「ええっ??」としか反応しようがないような現実が渋谷や新宿で起こってるんだよね。
 すべてのキーワードは「お手軽」だよね。合法ドラッッグでお手軽に気持ちよくなれて、パンティーを売ってお手軽に金を得る。だから辞められない。まあこういうのも火遊びみたいなもので、数年やればその馬鹿さかげんに自分で気がついて辞めるよ…という人もいるだろうけど、そうなんだろうか。うちの娘も数年後には「友だちと渋谷に行ってくる」とか、そういう年代になるからねえ、他人事には思えないんだよね。こういう若者(っていうか社会)について、世の大人たちはどう思っているんだろうか?
 いつか親に。 
 ドラッグや援交やっている子たちもいつかは親になる日がやってくる。芸能ニュースでも、親になっても何度もドラッグで話題に上る人たちもいる。世間が簡単にそれらの人を認めてしまう、受け入れてしまうというところがあるよね。自分がやっていたから子どもに「それは駄目」とも言えない人たちが増えていくのかな? 私たちが10代の頃も今に近いようなこと・・・ドラッグ、援助交際、パンティ売ってお金を得る、というようなことはあった。でも、そういうことをするのは「普通」じゃない子という枠だったのだが、今は誰も驚かない、そんな時代になってしまったのね。都会と地方では違うかというと、今は情報の伝達が速い。ネット、テレビ、メール・・・。すぐに地方にも「流行」は広まる。純なだけに、染まりやすかったりもする。免疫ができていないのでダメージも大きい。そんな気がする。
 落ち着ける場所 
 今日はいぬかいっちの真似をして、ハンバーガーショップでお勉強をしてみた。ついでにブランチも。  このハンバーガーショップ、隣はゲームコーナーだったり、店内ではクレヨンし○ちゃんのビデオが流れていたり。はたまた、スーパー内にあるので、カートのガラガラ音やレジのピッピッというチェッカー音がひっきりなしに聞こえる。  でも私にとっては「意外といいかも!」だったよ。  大自然のまっただ中にある我が家だけど、静寂の中、ハエが一匹いただけで気になる、猫のけんかの声が気になる、土手の草を刈る音が気になる・・・静かなだけにね。ガチャガチャしていると、そのひとつひとつについてはあまり気にならなくなるものだよね。  
 ユニセフ募金で感じたこと 
 先日緒方貞子さんの講演会に行ってきた。その翌日に、娘が入ってるガールスカウトでユニセフ募金(←募金を集める方です)をやった。当の娘は熱を出して参加できなかったけど、私は駅前でお手伝いをしてきた。緒方さんの活動には遠く及びようもないけど、何か私にもできることがあるのならやりたいという気持ちがあったからだ。
 緒方さんも講演会で話をしてくださったが、難民を出してしまうような紛争が起こっている地域(アフガニスタンなど)では、たいてい子どもたちは学校に行けず、教育を受けることができない。とくに女の子はそうで、「女の子も学校に行こう」というのが今回の募金への一つの呼びかけになっていた。
 募金をしてくれた人には、ユニセフの活動に関するパンフレットやスカウトが自分たちで折った折り紙を渡すのだが、その時のその人たちの表情は一様に恥ずかしそうな、うれしそうな顔をしていた。もちろん活動をしているスカウトがかわいい女の子ばかりだから、男の子は恥ずかしいのかもしれないし、お年を召した方は孫に「ありがとう」と言われたようでうれしいのかもしれない。中には「ご苦労様。がんばってね」と言ってくれるオバ様・オジ様もいたりして、こちらもうれしい気持ちになる。
 ガールスカウトの活動の中には、障害者施設でのオムツ畳みなどもあるのだが、そういうボランティアに対して、以前は一方的にボランティアをする側からボランティアを受ける側へ何かを「与える活動」というような意識があった。でも、実際にやってみると、ボランティアをする側である私たちも活動を終えた時には充実感を得たり、感謝されることでとても温かい気持ちになったりする。つまり、ボランティアは決して一方通行の行為ではなくて、ボランティアをする側、される側双方の気持ちの交換が成り立つ行為なんだなあとつくづく感じる。
 今回の募金活動では、私がテレビで、戦闘によって瓦礫と化した街を見たり、戦争で手足を失った子どもたちの生活を見たりする時に感じる、何とも言いようのない虚脱感、怒り、悲しみ、生命力の強さ、みたいなものを、募金をした人たちもきっとどこかで感じたんだと思う。そこに私は連帯感みたいなものを感じて、この日本でこういうことを感じることができて、とても新鮮だった。


 余裕がない!! 
 1年を通して、秋はとくに忙しい。とにかく行事が多いのだ。今年から上の子の運動会は春に行われることになったし、七五三は去年やったし、母親の還暦の祝いも済んだので、今年の秋は少しは時間ができるだろうと思っていたのだが…。平日は仕事に追われ、土・日は子ども関係の行事が目白押し。9月以降、まったく何も予定がない日というのが、皆無だった。
 最近の親は、一般的に見ても忙しいようだ。フルタイムでなくてもパートで働く母親が多く、子どもの習い事や学校の行事も多くて、とにかく毎日をこなしていくことが最重要課題となっている人が多い(私がその最たるものだ)。だからお祭りや本来楽しみになる行事も、「やっつけ仕事」になってしまう。
 いろんな行事は、その行事が執り行われる日より、その前の準備を楽しむものだと思うが、それがまったくできないのが、最近つらく感じるようになってきた。例えば来月、初めて韓国に旅行に行くのだが、その準備もまともにできない。格安チケットを探し、宿を探し、パスポートを取り…なども、おそらく学生の頃だったら、もっとそのこと自体を楽しめたはずだ。旅行などは、とくにその準備段階で、ああでもない、こうでもないと予定を考えるのが楽しいのに、「時間がないからとにかく効率よく計画を立て、効率よくいろんな予約をする」ことが主眼となってしまっているのだから、自分のことながらあきれてしまう。
 どうしてこうも余裕がないのか。考えても、答えは「仕方がない」としか出てこないのだが、こうやって月日を過ごしていくことに、一抹の寂しさを感じてしまう。子どもたちとの接し方についても、唯一ゆっくり相対することができる夜の時間も、仕事をせざるをえないことが多くて、ストレスがたまってしまう。睡眠時間を削ってもこの有様なのだから、どうにもできない。家事ももっとやりたいのに(正確に言うと「やってないからやりたい」のに)やれないままだというのも、ストレスになってしまう。このストレスを解消するには、他のことではダメだ。ちゃんと子どもとの時間や家事をする時間をとるしかないのだ。
 1日1日を流さずに、きちんと過ごしていきたいなあ。
めざしてきた「ゆとり教育」って何だったの?  
 先日、ゆとり教育の全面見直しが本格化するというニュースが流れ、実際に具体的に授業時間数の見直しなどが始まっている。これは、国際機関が実施した学習到達度調査と国際数学・理科教育調査の2つの国際学力調査の結果、日本はどの項目においても前回より順位が後退したことが示され、「ゆとり教育は失敗だった」という結論に達したことが一番の原因らしい。「日本はもはや世界のトップではない」…だから「ゆとり教育は失敗だった」というわけだ。
 でも、どうなんだろう。ゆとり教育を導入してからまだ2年しか経っていない。これまで、週休2日制を導入し、各教科の時間を削って「総合的な学習の時間」を作り、各学年で学ぶべき範囲を狭めてきたのだから、一時的に目に見える学力(点数)が低下することは事前に明らかだったのではないだろうか。学力が低下することはわかっていたのだから、今さらそのとおりになったからといって、慌てて方向転換するっていうのは何だか馬鹿げてない? じゃあ、何でこれまで「ゆとり」「ゆとり」と大騒ぎしてきたの? 点数だけじゃない豊かさを求めてたんじゃないの? ほんとうに子どもたちに「生きる力」をつけさせたかったんじゃないの?
 今週、上の子の授業参観があって、そのとき一つの教科の授業ではなく学習発表会が行われた。今年1年で学んだことを発表するということで、九九の暗誦、劇(国語の教材を使って)、縄跳びやマット運動、英語の寸劇、合奏など、子どもたち自身が好きなものを選び取り組んだ発表会だった。これが、すごくよかった。子どもたちは思い思いに工夫を凝らし練習したようで、恥ずかしそうだけど得意げな顔つきで発表していく。こういうのを見ると、学力低下って何?という気がしてくるのだ。いいじゃない、別に世界のトップじゃなくても。子どもたちが先生の指導の下、自ら発表の内容、段取りなどを考え、ときには友だちと意見が対立しながらも、一つのものを作り上げていく楽しさを感じている。こういうのが大事なんじゃないのかな。上智大学の加藤幸次教授は「授業時数を増やせば学力が上がるというデータは何もない」と指摘し、「総合的学習は主体的に学習に取り組む姿勢を育てるのが狙いで、教科よりむしろこちらが基礎基本」とおっしゃっているが、私もすこぶる同感である。
 もちろん「見直し」してもいいと思う。だけど、また昔の詰め込み教育に逆戻りすることだけはやめてほしい。ここ何年間かがんばってきた「ゆとり教育」のねらいは継承しつつ、子どもたちに学力をつけさせることができるような「見直し案」を切に願っている。

 冠婚葬祭 
 冠婚葬祭についての実用書ってあるけど、「いざ」というときにならないと手にとらないものでしょ?おめでたい方はまぁともかく、不幸は急にやってくる。何にも知らなかったのよ。私って。6月に身内が亡くなって、直後は家族は故人のことを思い出しながら、しんみりと過ごすのだろうなと思っていたら、やることがものすごーくあるのね。今はほとんどの家庭が葬祭場まかせだったりするでしょ。でも、何もやらなくていいような錯覚に陥っているだけで、実際は何を決めるのも家族だし、お客様のおもてなし(?)も家族、泣いてる暇なんてないんですからー。昔は近所の世話やきさんが何もかもしてくれて、家族は悲しみに浸っている余裕があったとのこと。お手伝いの女性たちはきっと大変だったのでしょうけどね。
 子どもの変化 part1・上の子の場合 
 最近、上の子がちょっと大人になったな〜と思うのは、外で母親と手を繋ぐことにテレるようになったこと。私が手を出せば繋いでくるんだけど、同年齢の子どもが見えると、すぐに何気に手を離してしまうの。パッと手を離していきなり走り出したり、ふっと私の後ろに隠れたり…。それがなんか可笑しくて、つい笑っちゃいそうになるんだよね。でも、うちの子より年上でも、平気でお母さんと手を繋いで歩いている男の子もいるんだよね。うちは小3だけど、5、6年生でもいるんだよ。どうなんでしょ? 子どものほうにも?だけど、母親のほうにも?なんですけど、私的には。いい悪いってことじゃないけど、私が男の子の母親だったら、さすがに高学年になって手を繋ごうとはしないと思うんだよね〜。恥ずかしいから。まあ、女の子より男の子のほうがこういうことには疎いっていうことなのかもしれないけどね。
サンタさんも大変だわ
 今年もクリスマスが近づいてきた。うちはキリスト教信者ではないけど、一般的な日本人なので、適当にクリスマスを祝う。クリスマスといえばプレゼントだけど、うちでは毎年、サンタクロースからと親から、それぞれプレゼントが届くことになっている。今年はどうなのか…?
私「今年は何をサンタさんに頼むの?」
姉・妹「たまごっち!」
私「でも、たまごっちって人気があって、トイザラスとかでも並んでるらしいよ」
姉「大丈夫だよ」
私「サンタさんは、たまごっちってどうやって手に入れるのかな」
妹「トイザラスで売ってるから、買うんだよ」
私「え? サンタさんも並んで買うの?」
姉「ちがうよ。並ばなくてもサンタさんのところにはプレゼントがたっくさんあるんだよ」
私「へ〜、そうなんだ。でももしかしたらサンタさんのところにたまごっちはないかもしれないよ〜」
姉・妹「絶対、大丈夫!!(鼻息荒い)」
 さて、サンタさんはかわいいきょうだいのために、インターネットでたまごっちを探し(もちろん定価で買えるところを)、先日無事、入手したらしい。サンタもなかなか大変だわね。
 それにしても、サンタに手紙を書きたいという娘のために、サンタ村(?)の住所を調べようとしたんだけど、「サンタに手紙を書き、返事が来る」というビジネスが結構あるようだ。なんか別に返事来なくてもいいから、自由に手紙を送らせてほしい。ささやかな夢さえ、やっぱりビジネスにされてしまうんだな〜。

アナログ人間でいいんです?
 確かにPCは使っている。携帯だって今や無くてはならないものになってしまった。でも自分自身は超アナログ人間だと思っている。PCが大好きでもないし、メール打つのがもどかしい時もある。PCのおかげでしなくていい出費も多々あるし(壊れた。バージョンアップだ何だかんだ・・)。言っちゃ何だけど仕事のためだから仕方なく使っているのだ。別な仕事をしていたらパソコン何台も買っていたかなぁ?多分、NO!だと思う。子どもが学校で習いはじめて、やっと「じゃぁ、安いのでも買ってやるかぁ」ってな具合だったろうと思う。誰かが言っていた「PCできなきゃダメだみたいな風潮はあるけど、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんはPC知らなくても充分幸せだったりする」って。情報に振りまわされない自分をしっかり持っていたい。んー理想だけど、年の初めだし、そんな人に私はなりたい、中身は頑固なアナログ人間でいたいと今後の目標を掲げてみたのだが・・・。
 自分の中にアンテナを
 先日、たまたま見つけた朝日カルチャーセンターの「『AERA』の企画帳」という講座に行ってきました。「AERA」の副編集長をなさっていた(現在、産休中)浜田敬子さんという方が、ご自身の経験から、「おもしろい企画」の立て方について話をするというものでした。
 私は、以前はよく企画を立てて出版社に持っていっていましたが、最近はとんとご無沙汰…。その理由を考えてみると、1.日々の暮らしで目一杯、2.企画を立てるにはそれなりにお金がかかる、3.企画を出版社に持っていってもなかなか通らない、などがあります。1.については、本職(書籍の編集)と、家族のこと(家事、子育て、PTAの役員など)で手一杯な上に、細切れな時間を寄せ集めて韓国語の勉強をしていることが大きな原因かな〜。2.については、最近はインターネットでいろんなことを調べられるけど、やっぱり体系的な情報は本で得ることが多いので、その企画に合わせた参考書を購入するとなると、それなりにお金もかかるというわけです(1冊じゃないからね)。で、この1.2.をなんとかクリアしたとしても、肝心の3.でこけちゃうと、もう「何のために私は時間もお金も使って企画を立ててるんだろう…」と、自己嫌悪に近い感情を抱いてしまうんです。それを繰り返した結果が、現在の私のありさまというわけですね。
 でも、講座で浜田さんのお話を聞いていて、「企画の立て方」についてよくよく考えてみると、その方法論に誤りがあったんじゃないか?と思ったんです。もちろん、「AERA」は雑誌だし、私が立てる企画というのは、書籍の企画であって、扱うジャンルも限られているから、一概に雑誌の方法論をそのままなぞることはできません。雑誌の記事は、誤解を恐れずに言えば、「流せるもの」だと思うんですよね。雑誌は、そのとき、旬の事柄について書くことが最優先されますが、書籍はそれがもっと長いスパンで人々の心をつかむってことが最重要課題なんですよね。仮に、そのときものすごく話題になったことだったとしても、それが少なくとも実際に本が出版される半年後、1年後に人々の関心を引く事柄なのかどうか、そこまで見越したうえでないと企画としてまず成立しません。あるいは、雑誌はメインの部分とそうでない部分があり、そうでない部分において人々の一番の関心事ではないけれど雑誌の作り手がやりたいこと(マニアックなことや硬派なこと)ができるという可能性もありますよね? でも、書籍はそれが非常に難しいんです。
 最近、テレビドラマや映画でベストセラー小説をもとにしているものが多いんですが(多すぎ?)、そういう流れは少なくともゼロからの出発とは言えなくて、ある程度の視聴者や観客が見込める、つまりあらかじめ採算が見込めるってことじゃないでしょうか? それって、ズルイくないですか?(笑) 書籍だって、雑誌である程度ウケた、あるいは雑誌の連載をまとめたものが目につきますよね。すでにリサーチしたうえでの書籍化なわけだから、それは売れて当たり前だとも思うし。
 話がそれましたが、浜田さんの話の中によく出てきたのが「ひっかかり」という言葉です。世の中の出来事でもいいし、身近な人との会話の中でもいいし、そこで自分が感じた「ひっかかり」(ときには共感であったり、違和感であったりするでしょうけど)が企画の根本にあるっていうことなんですね。そこで私がはたと気がついたのは、その「ひっかかり」っていうのは、私のように日々の生活に忙殺されて、死んだようになってる人間には生まれないんじゃないかっていうことなんです。よく「アンテナを立てる」って言いますが、そのアンテナはやっぱり「自分の中に立てないとダメなんだな」って思ったんです。いろいろなニュースや情報にさらされ続けている中で、私は自分でいろんなことに関心を持ってたつもりなんだけど、それは自分の体感温度をもとにしていなくて、ただ「世間の人の関心事に関心を持ってただけなんじゃないか」ってことに気がついたわけです。
 講座を聞いて、いい企画が立てられるかどうかはさておき(苦笑)、自分の中にしっかりアンテナを立てることから始めたいと思いました。

 駆け込み寺
 自分が前に進めなくなると、本当にやりたいことだけやりたくなる。
たぶん「逃げ」なんだろうなぁ。今も絵を習いに行こうかと考えている。
絵手紙、デッサン、猫の絵、パステル画…多くの教室に通った私、
ただの「逃げ」だから長続きはしない。せいぜい半年。
マッサージみたいなもので、凝りがとれたら行かなくなっちゃう。
「うまくなりたい」という気持ちはちょっぴりだけ、
集中して描いている時間の爽快感と、
まわりの人たちの作品から受ける刺激が気持ちいいだけでまんぞく。
さて、今回はボタニカルアート教室に興味を持っている。
ボタニカルアートというのは、草花や樹木を見たまま正確に描くもの。
難しそうだけど、今年受けて惨敗だった「緑・花文化の知識認定試験」、
次回受ける際に役立つかも知れないしね。
好きなことが仕事になっている人ってうらやましかったりするけど、
実際は仕事になっちゃうと楽しめないものかも。
もともと文章を書くのは好きなんだけど
書くだけでは「すっきり」できない理由はそのあたりかな。
あなたにとっての駆け込み寺はどこ?

「親学」って必要?
 政府の教育再生会議が、親に向けた子育て指針「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」の概要をまとめたというニュースを聞いて、そもそも「親学」なるものを国にとやかく言われる必要ってあるのかな?と思った。
 この内容が、「早寝早起きして朝ごはんを食べましょう」とか「父親も学校行事に参加しましょう」とか「テレビを見ないで芸術鑑賞しましょう」とか、なんだか別にわざわざ声高に言うようなことじゃない内容だから、余計にそう感じるのかもしれない。中には「母乳にしましょう」だとか「授乳中はテレビを消しましょう」とか、どう考えても個人の自由では?と思うようなものも含まれている。医学的に、母乳が赤ちゃんにとっていいものだということや、赤ちゃんの顔を見ながら授乳することで母性が目覚めるということなどはわかっているが、実際には、母乳がでなくて悩む母親も多いし、授乳時間くらいしか他のことに目を向けられないという母親もいるんだよね。
 それに、母乳育児を推進するなら、会社の近くに保育所を作り、授乳時間をきちんと確保できるような環境整備をするとか、父親の育児参加を言うなら、ちゃんと授業参観のために半休とることを当然とするような社内の空気を作るとか、外枠も一緒に提言して、国が先にそういったことをすべきじゃないかな〜?
 男女共同参画社会とか言うけど、女性ばかりが男性社会に適応しなきゃいけないような現実の中で、男性が女性社会(育児とか学校行事‐PTAとか)に適応できるような社会制度・風潮を作って欲しいですね。まずは。

ゴミ問題

 先日あるテレビ番組で、横浜中華街で今、ゴミの不法投棄が問題になっているという内容の放送がありました。ここでは、お店から出たゴミは有料の袋を買って捨てることになっているようですが、主に新しく開店した店のゴミが不法投棄されているそうです。そういった店の多くは外国人(中国人)が経営していて、ゴミの出し方を説明しても、基本的に「なぜゴミを捨てるのにお金がかかるのか?」ということが理解されないようでした。
 中国といえば、最近、中国から輸入した食品にさまざまな人体に有害な物質等が入っていたり、大腸菌などが検出されたりして、世界的に社会問題になっています。中国当局でさえ自国を「発展途上国」と言っているように、安全・環境問題に関しては、非常に後進国だと言わざるを得ないようです。北京オリンピックを前に、中国側もイメージアップに必死なのでしょう。問題のあった企業に対して輸出禁止命令を出すなどの対策に乗り出しました。
 イメージアップといえば、中国では今、毎月11日を「行列の日」として、「11の字のようにきちんと2列に並びましょう!」という運動が、国を挙げて行われています。まじめな取り組みなので、笑っちゃいけないけど、やっぱりちょっと笑ってしまいました。こんな運動を国を挙げてやろう!としている国と、日本のようにあらゆることが細分化されてきちんと決められている国とでは、やはり意識に違いがあるのは当然といえば当然でしょう。
 先週、PTAで行っている廃品回収について、市役所で講習会がありました。そこでは、ゴミの分別の仕方から、ゴミの出し方、3R運動に関する説明等々がありました。あまりにも細かく規定されていて、正直、ゴミ出しが負担に感じさえするような講習会でした。でも、よく考えたら、それだけゴミの種類が複雑になっているのです。昔はほとんど生ゴミだけだったのに、プラスチックやら燃やすと有害物質が出るものやら、とにかく世の中のゴミが複雑になりすぎているわけです。便利を追求してきた結果が、ゴミ一つ出すにも面倒な世の中になっているのです。
 このように日本のような先進国と言われる国でもその国なりの問題があるので、中国のような国を批判するだけじゃなくて、あとに続いている国々に模範を示すことができるような国づくりを目指して欲しいと思います。




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